新納真司・玉皇(協力宣教師)

派遣国:タイ/バンコク

Profile

新納真司(にいの まじ)
神奈川県出身。高校生の時に受洗。
建築会社で10余年勤務の後、直接献身を決意。神学校を卒業、伝道師、副牧師を経て2004年に牧師按手を受ける。国内で牧会、開拓を経験し2007年中国上海で日本語教会を開拓する。
2017年に帰国。国内で協力牧師となる。
2021年からタイ聖書福音教会牧師となり、コロナ禍の間はZOOM礼拝。2022年バンコク着任。

新納玉皇(にいの たまお)
青森出身。19歳の時に友人からの個人伝道で決断し受洗。
保育園勤務。結婚後は専業主婦。夫と共に直接献身へ導かれる。

「証」新納真司

「後世に残る巨大な構造物を造る」と言う魅力から私は土木工学を大学で専攻し、建設業に入社しました。それから11年が過ぎ、私は都内の地下鉄工事現場に勤務していました。勤務は早朝から夜遅く、日曜日を除いては休む間もなく働いていました。そのような中で、クリスチャンとして教会で奉仕し、職場で証する生活は戦いの日々でありましたが充実感を覚えていました。

ただ、あっという間に10年余りが経ち、年齢も33 歳になっていました。ふと立ち止まって考えると、この先の10年も20年もあっという間に過ぎ去って、定年を迎えるようになるのか。そのときこう思うだろう。後世に残る構造物は造っても、神のための仕事はどれだけ出来ただろうか。私は人生の若い時期を殆ど建設の仕事に費やしましたが、人生の方向は果たして正しかったのだろうか。ある日、聖書を読んでいるとこんな言葉が心に飛び込んできました。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは神にも仕え、また、富にも仕えるということは出来ません。」(マタイ6:24)
私はこのみことばから「神に仕えると言いながら実際は富に仕えているのではないか」と迫られました。「そうではない」と自分で言いながら、「それなら職を辞することは出来るのか」とも迫られました。逡巡しながらも「退職して主に仕えます」と言いました。すると主はその続きの御言葉で主がどんなに養って下さるか教えて下さり、「明日のための心配は無用です。」と慰めて下さいました。

私は神学校に入り牧師となり教会に仕え、後に中国上海に導かれました。迫害のイメージの強い中国です。現地には数万人の日本人がいましたが日本人牧師はおらず日本語教会の必要があることを現地の人から訴えられました。「この状況って、日本の教会事情よりひどいんじゃないか」と心に迫るものがありました。これが主からの促しであると気づいて、2007年要請に応じました。10年奉仕して、上海JCF という日本語教会が立ち上がりました。今は教会員であった川端愛兄が献身し、2代目牧師として牧会してくれています。

中国での奉仕を終え、帰国後しばらくして、もう一度海外日本語教会で奉仕したいと主に祈っていました。バンコクにあるタイ聖書福音教会がしばらく無牧の状態で牧師を求めていると聞きました。バンコクにはもう一つ日本語教会があり、そちらも牧師が間もなく退任すると聞きました。「これだけ日本人の多い都市で2 つの教会とも無牧になるって大変なことじゃない?」以前上海で感じた時のような、危機感を覚えました。私はこれを主の召しと受け止め、受諾しました。

しかしコロナ禍や親の介護下で動くことは出来ず、日本からネットでの礼拝奉仕を続けながら、いつになったらバンコクに赴任できるのか先が見えませんでしたが、幸い2年後に赴任できました。教会規模は今ミニマムですが、日本人の出入りの多い所ですので、今年は情報の入り口となるウェブサイトをリニューアルしました。来られる方に教会を見つけていただき、速やかに礼拝生活に入れるようにと願っています。また、2023年アンテオケ宣教会の協力宣教師に加えてくださり、多くの方の祈りの中で奉仕させていただけることに感謝しています。

「献身の証」新納玉皇

主人との結婚を機に私は専業主婦となり、家事と子育での日々を過ごしていました。実はこの期間が私にとって神様から大きく取り扱われる時となりました。
主人が大学卒業後神学校に進むか、それとも社会人として就職するか悩んでいた時、もし神学校に進んでいたら、私は主人と結婚をしていませんでした。なぜなら私は牧師夫人にはとても恐れ多いことで、私には出来るはずがない無理だと思っていました。ですから主人が社会人として就職を選んだ時は内心ホッとしました。

主人の仕事が順調にいく中、主人の日々の生活がだんだんと忙しくなっていきました。子どもたちが寝ている間に出勤し、寝てる間に帰って来るという子どもと顔を合わせるのは日曜日だけと言う日々が続いていきました。主人の忙しさと同時に私は子育ての中、寂しさもあって教会中心の生活になっていきました。そして教会の行事には積極的に参加しました。
主人は日曜日の礼拝にだけ参加するのが精一杯の日々の中、私は「主人はこんな人じゃなかった。もっと神様に熱く燃える人だったのに」と思うようになりました。だんだん私の中に神様に対する渇き、主人に対する渇きが出てきたのです。

ある先生がメッセージでこんな話をされました。ある人が20代の時、神様から「さあ、私と一緒に働きをしよう」と、神様の声が聞こえました。その人は「もう少し待ってください」と。30代の時も神様から「私と共に働きをしよう」、その人は「もう少し待ってください」。40代の時も50代の時も声をかけられましたが「もう少し」と延ばしました。その人が60代になった時「神様、いいですよ」と思った時にはもう、神様の声が聞こえなくなった。と言う話でした。私は主人に「仕事中心ではなく、神様を中心に」という思いで腕をツンツン押しました。ですがこのメッセージは主人ではなく、私に語られたのだと後に気づきました。

「共に働きをしよう」と。

その後、主人は「仕事を辞めて神学校に行きたい」と相談してきた時には、私の中ではすんなりと同意することが出来ました。専業主婦時代が私の渇きとなり神様を求める時となって、神様が私を整える時でもありました。そして共に神学校へと導かれました。
「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

バンコク中華街
博物館(シルク王ジムトンプソンの家)、タイ伝統家屋